
ゲーム批評における利害関係
そして、少しずつ失われていく信頼
ゲーム批評における利害関係と、少しずつ失われていく信頼。
ここ数年、もしかすると10年以上前から、ゲームの批評に対してどこか違和感を覚えることが増えてきた。
特に、有名なスタジオが関わるAAAタイトルになると、内容に関係なく高得点が付くことが、ある意味当然のように感じられる。
ノスタルジーやブランドの重み、期待値によって、結果が最初から決まっているように見えることもある。
そこで気になるのが、プレイヤーとの違いだ。
Metacriticのようなサイトを見ると、批評とユーザー評価の間に、はっきりとした差があることに気づく。
すべてを証明するものではないが、今の状況を象徴している例がある。
Dragon Age: The Veilguard
BioWare
Crimson Desert
Pearl Abyss
どちらの場合も見えてくるのは、批評とプレイヤーの評価のズレだ。
前者では、_BioWare_のような歴史あるスタジオが関わっている。_Mass Effect_などの影響もあり、評価がブランドに引っ張られているようにも見える。
後者では、シングルプレイの経験はそこまで多くないスタジオだが、プレイヤーからは高く評価されている。
印象的なのは、このコントラストだ。
プレイヤーは先行アクセスもなければ、開発側との関係もない。
そして何より、ゲームのイメージを守る理由もない。
ただ遊んで、感じたままに評価する。
レビュー爆撃の問題は確かにある。
それでも、内容を読めば、ある程度の方向性は見えてくる。
ここで出てくるのが、この話の中心になる考え方だ。
利害関係(コンフリクト・オブ・インタレスト)。
簡単に言えば、何らかの利益が関わっている状態だ。
金銭的なものだけでなく、人間関係や可視性も含まれる。
ゲーム批評においては、例えばこういう形で現れる。
- 先行プレイの機会
- パブリッシャーや開発との継続的な関係
- 早く情報を出せることによる露出
こうした条件が、ある種の構造を生み出す。
明確な取引がなくても、暗黙の関係は成立する。
アクセスや露出が続くかどうかは、自分の立ち位置と無関係ではないと感じるようになる。
これはとても繊細なバランスだ。
そして、そのバランスが、少しずつ信頼を揺らしていく。
特定のスコアを見ると、完全に独立した評価として受け取ることが難しくなる。
直接的な見返りがあるとは限らないが、システム自体がある方向に働くように見える。
ここで思い浮かぶのが、ジャーナリズムとの比較だ。
本来、ジャーナリズムは利害関係を避けることで成り立つ。
現実は単純ではないが、その考え方は基準として存在する。
だからこそ疑問が生まれる。
本当に独立した批評が、利害関係と共存できるのか。
どれだけ信頼を積み重ねても、その疑いは消えない。
そして、その疑いだけで評価の見え方は変わってしまう。
ゲームの批評では、先行アクセスや開発との関係は珍しくない。
だからこそ重要になるのが透明性だ。
見る側の疑問を否定するのではなく、受け止めるべきだと思う。
そして、可能な限りその疑いを減らそうとする姿勢が必要だ。
そうでなければ、性質が変わってしまう。
批評ではなく、発信になる。
分析ではなく、露出になる。
その違いは大きい。
インフルエンサーであれば成立する。
だが批評やジャーナリズムを名乗るなら、同じではいられない。
だからこそ、これらの構造から距離を取ろうとする人たちを評価したいと思う。
少なくとも、信頼に近づくための方法だからだ。
あるいは、その疑いを増やさないための方法。
今のゲーム批評は、多くの場面で信頼を失っているように感じる。
すべてが悪意で行われているとは思わない。
だが利害関係が存在する以上、完全に排除されているとは言い切れない。
問題はそこにある。
確信ではなく、疑い。
これからどうなるのかは分からない。
市場は大きくなり続けている。
より健全な形に向かう可能性もある。
あるいは、変わらないかもしれない。
それでも、プレイヤーはまだ自分で判断している。
ユーザーレビューがそれを示している。
それでも、このズレは残る。
そして、それを無視することはできない。
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